猿島要塞は、フランス積レンガの建造物が貴重
東側尾根の散策路に向かう第一砲台跡にあるトンネル
猿島要塞の建物は、そのほとんどがフランス積レンガの建造物で、とても貴重なものとなっている。日本のレンガ建築は、幕末の長崎に始まり文明開化とともに全国に広がりはじめた。現在では、そのほとんどが地震や老朽化により残っていない。日本建築学会の調査では、明治20年以前のレンガ建築物は現在、全国で22件が確認されているのみ。 猿島の要塞跡はそのひとつで、愛知県産の品質の高い赤レンガを用いて、明治時代中期に建造されたもの。レンガの積み方は、大きく「フランス積」と、明治20年ごろから主流になった「イギリス積」に分けられるらしい。猿島要塞はフランス積で、 フランドル地方(ベルギー西部~フランス北端にかけての北海沿岸)で発達しはじめ、 正式にはフランドル積と言われる。 フランス積のレンガ建造物は、もともと数が少なかったこともあり、猿島要塞を含めて全国で4件しか確認されていない。このように、猿島要塞の建造物は、建築史上でも貴重な建築物なのだ。 |
無人島「猿島」のみどころ(3)
愛のトンネルの入口「フランス積み」レンガで作られた明治20年以前のトンネル。現存する4件のフランス積レンガの建築物のレンガ積みを下の写真で見てほしい。小口(短い辺)と長手(長い辺)のレンガが交互に詰まれている。 |
愛のトンネルの入口 |
愛のトンネルの中愛のトンネルは、要塞の中心として使用されていた長いトンネル。幅4m・高さ4.32m・全長90mで、指令部、兵舎、弾薬庫、倉庫があり要塞の中枢だった。天井がアーチ状の入口で、内面はフランス積みのレンガ構造、トンネル内西壁には各地下施設をもち、それぞれが2階構造で複雑な構造のトンネルになっている。左側に、建物への入口がいくつかあるのだが、現在はふさがれている。内部は2階建てで、12の部屋があったらしい。 |
愛のトンネルの中 |
砲台地下施設トンネルの西壁内側には、フランス積みレンガ構造の2階建ての地下施設があった。このアーチ状の開口部は、2階と西側斜面へ上がる連絡通路で、山頂付近にあった司令所や照明所へ行く重要な通路だった。 地下室の個々の用途は、いまだ不明らしいが猿島砲台全体の弾薬を貯蔵するおおもとの弾薬庫であったことは確認されているとのこと。 |
砲台地下施設 |
弾薬庫跡のトンネル愛のトンネルを出た目の前にさらにトンネルがある。このトンネルは、猿島の中で唯一人が入れれる弾薬庫跡。下の写真はトンネルの出口。写真の左側内部には、砲台があった高台に弾薬を運ぶ「揚弾井」がある。 |
弾薬庫跡のトンネル |
第一砲台の関連施設愛のトンネルを抜けて右手にまたトンネルが見える。このトンネルの手前右側が第一砲台の関連施設の跡。台地上の両側には、27cm加農砲が1門ずつ設置され、砲台下には弾薬庫や弾を上げるための井戸が陸軍によって建設されたとのこと。その後、海軍が高角砲を設置し、その通路として弾薬庫を貫いてトンネルとし現在に至っていると説明されていた。この写真のトンネルを抜けると、島の東側へ抜けることができる。 |
第一砲台の関連施設 |
十字分岐路弾薬庫跡のトンネルを抜けると尾根を通る散策路に出る。ここは、十字路のようになっていて道標がある。左に行くと「日蓮洞まで100m」、右に行くと「展望台まで150m」、 正面に行くと「広場まで80m」となっている。一般的な見学コースは、最初に左に行き日蓮洞を見学し、その後ここに戻り広場(台場跡)を見学したの後に、またまたここに戻り展望台を目指す。 |
十字分岐路 |
砲台跡この砲台跡は、8cm高角砲の砲座跡。円形のコンクリート製構築物は太平洋戦争当時の高射砲の台座で、猿島要塞では、機能を変えながら第二次大戦まで使用されていたとのこと。昭和16年ごろより鉄筋コンクリート製の円形の砲座が5座造られその上には高射砲が配備されたとのこと。この砲台跡は、その5座内の最初に見た砲台跡。確かに、場所的には海が見え、海に向かって撃てる位置だ。 |
砲台跡 |
日蓮洞に向かう砲台跡の右側の先に「日蓮洞30m」との道標がある。その先にある金属製の階段を降りると日蓮洞に行ける。 傾斜が急な階段を曲がりながら降りるので、注意して降りていきたい。目の前に、東京湾を往来する多くの船を見ることもできる。 |
日蓮洞に向かう |