まだまだ知られていない場所もあることを感じる・・・まんだら堂やぐら群
展望広場からまんだら堂やぐら群のB群を見下ろす(2017/11/04:晴れ) 「まんだら堂やぐら群」は、国の史跡に指定されている鎌倉七口のひとつ名越切通(なごえ きりどおし)の中にある。私も30年以上神奈川県に住んでいるのだが、この「まんだら堂やぐら群」を、はじめて知った。2017年11月の3連休、ひさびさの快晴。今年の土、日は、異常なほどに雨の日ばかり。紅葉には、いまだ早い時期なので、どこかに行こうかといろいろと調べていたところふと目についたのが「期間限定公開:まんだら堂やぐら群」。期間限定公開と言う文字だけが目に焼き付いた。「まんだら堂やぐら群」は、季節毎の期日限定で公開されている。平成12年に、逗子市が本格的な発掘調査のためにこの一帯を長い間閉鎖していた。その後、調査や整備も進みようやく期日限定公開になったとのこと。鎌倉通以外の人には、知られていない史跡のひとつであることは確か。「まんだら堂やぐら群」とは、昔の人の墓。“やぐら” とは、鎌倉時代中頃から室町時代末期ごろに造られた墓。岩盤をくりぬいた中に、火葬した遺骨を納める穴などの納骨場所があり、供養塔・石仏などがおかれ鎌倉時代特有の遺構だ。「まんだら堂やぐら群」は、“やぐら”のひとつひとつが2~3m四方の大きさで構造も単純なものがほとんどなのだが、150穴以上が現在確認されていて、大規模なやぐら群であることが貴重とのこと。鎌倉市内でも、これだけの「やぐら群」の存在は珍しいとのこと。特にこの「まんだら堂やぐら群」は、やぐら群の前面スペースが開けていて容易に全体像を見渡せるようになっているのが特徴。この史跡名称に「まんだら堂」という名称がついているが、「まんだら堂」の跡は見れない。死者を供養するための「まんだら堂」という建造物があったとかと言う伝えもあるのだが存在していたのかも不明らしい。いつからこの場所が、“まんだら堂” と呼ばれていたのかもわからないとのこと。また、「まんだら」とは日蓮宗の本尊である「曼荼羅」に由来するものと考えられている。発掘調査が進んだのもここ数年のことで、まだ新しい史跡だ。保存の観点から、期間限定で公開が実施されていて、29年度の公開は、4/22~5/29、10/21~12/11、2/24~3/21の期間のうち土・日・月・祝日のみの公開が予定されている。来る人も少なく墓をあえて見に行くのかと思う人もいるかと思うが、、鎌倉・室町時代からあった場所が目の前で見られるという不思議な光景が、まるでタイムマシンで昔に戻ったような気分になるのがおもしろいのでは?たまには、歴史を振り返り歴史を知る機会を得ると言う面で、「まんだら堂やぐら群」やその周辺の史跡に子どもと向かうのも悪くはないと感じた。 |
まんだら堂やぐら群(逗子)
まんだら堂やぐら群は、公開されている広場(平場)の奥にあるA群、広場(平場)の周りにあるB群、展望広場の下方にあるC群、そしてA群よりもかなり北側の山の方にE群がありC群とE群は公開されていない。「まんだら堂やぐら群」と言えば広場(平場)の周りにあるB群が中心の史跡になる。広場の南側には小高い丘のような展望広場がありB群全体を見下ろすことができる。
まんだら堂やぐら群のB群
有名なB群のやぐら群 掘られたやぐら群 |
期間限定公開されているB群のやぐら群の前に広がる広場部分が平場と言われていた場所。やぐらは、2段~4段のひな壇状の地形に配列されている。これらは、上の層のやぐらを掘っては地面を掘り下げ、次の層にやぐらを掘っていったのだろうか?各やぐらの中には石塔が積まれている。この石塔は、五輪塔とも呼ばれ供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種で主に火葬した骨を収めるなどして供養するために建てられているとのこと。上の石から「空輸」「風輪」「火輪」「水輪」「地輪」と言われ空・風・火・水・地を表している。 |
やぐらの中に置かれた五輪塔 |
五輪塔の説明 |
奥にあるA群やぐら |
岩に掘られたやぐら |
二段のやぐら |
火葬跡の説明パネル |
名越切通(なごえきりどおし)
「まんだら堂やぐら群」に行くに何通りかの方法はあるのだが、やはりここは、国の史跡に指定されている鎌倉七口のひとつ名越切通(なごえ きりどおし)を通っていきたい。1180年に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南に海があるがそれ以外は、三方を丘陵に囲まれた地。そのため、陸路で鎌倉に入ろうとすると、その多くは細くて急な尾根越えの山道か、危険な波打際の崖下の道であったと言われている。執権北条氏の権勢が確立する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点として発展し物資の運搬や人々が往来する路が必要になり「鎌倉七口」などと呼ばれる切通路が開削されたと言われている。名越切通(なごえ きりどおし)は、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路の一つ。周辺には、切通の防衛にも関係すると考えられる平場や切岸、やぐらや火葬跡など葬送に関する遺構が多く、鎌倉時代の古道の雰囲気を今でも残しているとのことで昭和41年(1966年)に国史跡に指定された。 切り通しは、人や物の流れを良くするだけでなく、鎌倉に外敵が侵入するのを防ぎ、戦闘を有利にするための工夫も施されている。軍馬が走り抜けられないように道の真ん中に置き石が据えられていたり、武装した大群が簡単に通れないように鋭角に道筋が曲げられていたりする部分が多く見られる。
切り通し
名越切通(なごえきりどおし)には、計三か所の切り通しがある。現在の姿は鎌倉時代当時のものではないのだが、現在よりも急勾配であったと推定されている。時代が経つにつれて、歩き易いように道は切り下げられ勾配は緩やかになっていった。発掘調査の結果、江戸時代の頃には道幅も現在より広かったことが判明している。名越切通(なごえきりどおし)では、第一切通がもっとも狭隘な切り通し。「亀が岡団地口」から森の中の道を進むと第一切通がある。第一切通からさらに60m程度歩くと第二切通、第二切通を出るとすぐ右に「まんだら堂やぐら群への入口」がある。第二切通から120m程度で第三切通にでる。 |
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第一切通 |
第二切通 |
まんだら堂やぐら群への入口 |
第三切通 |
東平場とお猿畠の大切岸
第三切通からハイランド口に向かう道を行くと東平場にでる。まず目に入ってくるのが網フェンスで囲まれた「無縁諸霊之碑」。無縁諸霊之碑は、この周辺で発見された遺骨を集め祀っている。さらに進むと開けた東平場にでる。東平場は、第三切通に対し段々低くなっていて3~4段下がっている。この広場を通りすぎ先に進むと左手に、鎌倉市指定文化財の石廟(せきびょう)が二基ある。内部には火葬骨を納めた蔵骨壺が納められていたとのこと。発見された五輪塔の一部や、かわらけ片などから鎌倉末期から南北朝期に造られた古いものであることがわかっている。この石廟の形は、なかなか見られないめずらしい貴重な石廟とのこと。周囲にやぐらが多いの対してここだけ何故このような石廟なのかは全く謎とのこと。さらに進むと逗子の町が見渡せる「展望広場」にでる。広々とした場所で気持ちよく街並みを展望することができる場所だ。この展望広場の先を行くと、「お猿畠の大切岸」がある。
無縁諸霊之碑 |
東平場 |
石廟① |
石廟② |
展望広場(西側) |
展望広場(東側) |
お猿畠の大切岸(おさるばたけのおおきりぎし)
「お猿畠の大切接」は、長さ800m以上で高さが3~10m程度の切り立った崖が続いている場所。当初は、鎌倉時代前期の切岸(敵の侵入を防ぐ人工的な崖)と見られていたが、その後の発掘調査で石切り場跡であることが確認された。鎌倉では14~15世紀の建物の基礎などに切石を大量に使用しており、ここはその頃の石材生産地だったと考えられている。1707年に噴火した富士山の火山灰が上に堆積しているので石切作業はそれ以前に行われていたと推定されている。お猿畠という地名は、鎌倉を追われた日蓮がこの付近で三匹の白猿に助けられたと云う伝承からきているとのこと。 |
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お猿畠の大切岸 |
お猿畠の大切岸の崖 |
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崖は、風化なのかもろい |
800m以上続くお猿畠の大切岸 |